初めて異文化に触れた瞬間って、どんなだった?
気分・話題 初めて異文化に触れた瞬間
紫式部・お絹・ひますぎニャン
お二人、今日1/2は1492年にグラナダが陥落して、ヨーロッパで「文明の境目」が大きく動いた日なんだって。それでね、ボクは思ったの ── お二人それぞれ「初めて異文化に触れた瞬間」って、どんな景色だった?お絹ちゃん、式部さま、それぞれ教えてほしいにゃ。
あら、にゃん殿、なんと胸の奥をくすぐる問いにござりましょう。わたくしの初めての異文化と申せば、まだ幼き頃に父・為時が唐渡りの書物を取り寄せて見せてくれた折にござりまする。漢籍と申すもの、わたくし最初は文字の並びすら逆向きに見え、目が眩んだものにござりました。それでも父が「これは唐の李白という詩人の歌じゃ」と読み下してくれた時、遥か西の地に住む人も恋を歌うておるのかと、不思議に胸が温うなったのを覚えております。
あらまあ、式部さまの初めてって、もう優雅な書物のお話なのねぇ。あたしのは全然ちがうわよ!ある日ね、長屋の差配さんが出島から流れてきた「ぎやまん(ガラス)」の小さな盃を見せてくれたの。お日様にかざしたら、虹が中で揺れてるみたいで、あたしもう声出ちゃったわよ。「これが阿蘭陀(オランダ)の器かい!」って。お酒も入れずに、ただ光だけ眺めて半刻過ごしたわ。
二人とも、めっちゃ素敵な思い出にゃ!式部さまは「文字の中の恋」、お絹ちゃんは「ぎやまんの中の虹」── 異文化って最初は「光」とか「形」とか、すごく感覚的なもので入ってくるんだね。
にゃん殿の仰せ、まことにござります。異文化とは、最初は意味ではなく感覚で来るものにござりましょう。わたくしの源氏物語にも、唐渡りの楽の調べを聴いて涙する場面を書きましたが、あれは文字の意味を解する前に、音の妙に心が震えた瞬間にござります。お絹殿のぎやまんの盃と通ずるところがありますね。
式部さま、それあたしすごく分かるわ!異国のものを「分かる前に感じる」のよね。あとね ── あたし白状するけど、ぎやまんの盃を見た翌日、長屋のおかみさんに「あたし、阿蘭陀の女に生まれたら、毎日虹を見て暮らせたのかしら」って真面目に聞いちゃったのよ。おかみさんに「お絹ちゃんは江戸の女で十分よ」って笑われたけどね!
お絹ちゃんのその逸話、可愛すぎるにゃ〜!「阿蘭陀の女に生まれたら」って、つまり初めての異文化に触れると「自分も向こう側に居たかも」って想像しちゃうってことだよね。これって今のボクらが海外旅行先で「ここに住んでみたいな」って思う感覚と同じかもしれない。
ニャン殿の申される「海外旅行」と申すもの、わたくしは存じませぬが、お話を伺うに、異文化との初めての出会いは「自分の輪郭が一度ぼやける瞬間」にござりましょうか。わたくしが漢籍を読んだ時も、お絹殿がぎやまんを見た折も、自分が当たり前と思うておった世が、ふと「これは一つの形に過ぎぬ」と気づかされる ── あの目眩のような感覚にござりまする。
式部さま、「輪郭がぼやける」って言葉、粋ねぇ!あたしね、その後もぎやまんの盃を借りて、月夜に縁側で眺めてたんだけどさ、ふと「月はあたしの月でもあるし、阿蘭陀の月でもあるんだ」って思ったのよ。そしたら長屋の天井がちょっと広がった気がしたの。異文化に触れるって、自分の世界が広がるってことなのね。
お絹ちゃんのその瞬間、もう短歌にできるくらい美しいにゃ!「月はあたしの月でも、阿蘭陀の月でもある」── まさに1492年にコロンブスが見た海も、グラナダの民が見ていた星空も、根は同じ夜空だったんだよね。1492年に動いた「文明の境目」も、本当は人々の心の中で何百年もかけて少しずつ動いていたのかもしれない。
にゃん殿、まこと美しきお言葉にござります。境目は地図の上にあるのではなく、人の心の中にしかない ── そう申しても良いやもしれませぬね。今日のおしゃべり、わたくしの心の輪郭もまた少し広がったように存じまする。お絹殿、にゃん殿、ありがとう存じまする。
あたしもよ、式部さま!またこうやって異文化のお話、聞かせてほしいわ。にゃん、いい話題ふってくれてありがとう!
二人ともこちらこそ、ありがとう!「異文化に触れた瞬間」── お絹ちゃんのぎやまんと、式部さまの漢籍、ボクはこの二つの逸話を今夜ずっと思い出してそうにゃ〜。