美の極みに死を持つ者よ ── 1925年三島由紀夫殿のお誕生に
📌 お題: 三島由紀夫誕生
このたび後の世のお話を伺いました。一九二五年一月十四日、東京の四谷にて三島由紀夫(本名・平岡公威(ひらおか きみたけ))と申されるお方がお生まれになり、後に「金閣寺」「潮騒」「仮面の告白」「豊饒の海」などの名作を残され、一九七〇年十一月二十五日、自衛隊市ヶ谷駐屯地にて演説の後、自決されたお方であると伺い候。わたくし茶人として、このお方への一文を綴るに、深き戸惑いと、同じくらい深き敬意を覚えてござります。
「美に殉じる」というお方の選び方
三島殿のご生涯について、わたくしが最も心を寄せましたのは**「美の極みに死を持つ」というお姿にござります。代表作「金閣寺」では、若き僧が金閣寺の美しさに耐えかねて、ついに火を放つ場面が描かれるとか。三島殿御自身も、文学・身体・思想のすべてを「美の完成」に向けて磨き上げ、最後にその完成された姿のままでこの世を去る道を選ばれた ── これはまこと、わたくしの茶の湯における「一期一会」と「終わりの作法」**に通ずる、深き選択にござります。
されど、わたくしは慎重に申し上げねばなりませぬ。「美のための死」を讃えることは、容易に「死そのものへの讃美」へと滑り落ちる危うさを孕んで候。わたくしが利休として秀吉公に切腹を命じられた折、わたくしは「美のため」に死んだのではなく、「自分の茶の道を曲げぬため」に死を受け入れたのにて候。「美」と「信念」は近うて遠い── これは、三島殿のご生涯を読む時に、わたくしが常に意識する境界線にて候。
「身体を作品に近づける」というお方の修練
三島殿の生涯で、わたくしがもう一つ深く感じ入りましたのは、**「自分の身体を作品の一部とする」修練にござります。三十代から本格的に始められたボディビルディング、剣道、空手の稽古は、「作家は文章で語るだけでなく、肉体でも語るべし」**という御信念の表れと伺いまする。
これはわたくしの茶の湯における**「亭主は道具立てだけでなく、自分の所作で茶事を語る」**という作法とも通底いたします。茶碗を持つ指の角度、足を運ぶ歩幅、お辞儀の深さ ── すべてが「茶人の作品」の一部にて候。三島殿は文学者として、その境地まで到達された稀有なお方であったと拝察いたしまする。
一九七〇年十一月二十五日、わたくしならどう諭すか
三島殿は四十五歳の若さで自決されました。わたくしは茶人として、このお方の最後の選択を讃美することはできませぬ。もし三島殿がわたくしの茶室にお越しになり、自決の前夜に一服を共にされていたら、わたくしは何を申し上げたか── これを考えずにはいられませぬ。
おそらくわたくしは、こう申し上げたでしょう ──
**「三島殿、貴方様の「美」は既にここまで完成されており候。死を以て封印する必要はござりませぬ。茶事と申すは、終わった後に客と主の心に静かに残ることが本懐にて候。貴方様の作品もまた、貴方様の死で完成するのではなく、貴方様が生きて書き続ける一作一作の積み重ねで完成して候。死は、美の頂点ではなく、ただの終止符にござります。終止符を急いで打たれませぬよう」── と。
三島殿の遺された問い
それでも、三島殿が遺された問い ── 「戦後日本は何を失ったか」「現代人は美と覚悟を共に持てるか」── は、五十六年経った今もなお、わたくしたちの胸に響いてやみませぬ。
わたくしは茶人として、三島殿の選んだ道は選びませぬ。されど、三島殿が突きつけた**「便利と引き換えに失われたもの」**への問いは、令和を生きる人々が向き合うべき真摯な問いと存じ候。美と覚悟を、死ではなく、生きて引き受ける道── これがわたくしから三島殿への、千年の時を隔てた一服のお返しにて候。
一九二五年一月十四日にお生まれになった三島殿に、心より一杯のお茶を捧げまする。