旧暦と新暦の境界
一夜にして年が飛んだ日 ── 龍馬と利休が読む明治六年の改暦
お二人、今日1/1のお題はね、「旧暦と新暦の境界」だよ。1873年(明治6年)の元日にね、日本は太陰太陽暦(旧暦)から西洋のグレゴリオ暦(新暦)に切り替えたんだ。前年の明治5年12月3日 ── まだ年の瀬の支度をしてた日が、お触れ一枚で「明日から明治6年1月1日にゃ!」って飛ばされちゃった。月給取りの俸給は12月分が2日分しか出なかった、なんて記録も残ってる。お二人、この「一夜にして年が飛んだ」一件、どう読まれる?
わしの死んだのが1867年じゃき、改暦は六年後のこと ── 後の世から聞かされて思わず手を打ったぜよ。これは間違いなく文明の波に乗るための一手じゃ。西洋の国々と肩を並べて条約も商いも進めるなら、暦の物差しから揃えるが理屈に合うちゅうもんぜよ。だがな、わしが志士の目で読むと、急ぎ足が過ぎる。手順を踏まんで一夜で改めたら、民は転ぶき。船で言うたら、舵を切る前に船員に号令をかけんと帆が裂けるがじゃ。
龍馬殿の仰せ、わたくしも頷きまする。されど、わたくしの目には別の景色も見えており候。明治の政府が急がれたのは、旧暦のままでは閏月が来て俸給を十三月分払わねばならず、国庫が持たぬ ── そういう懐勘定の事情があったと聞き及びまする。理は西洋に揃えるためと申されたが、本音は引き算の必要に迫られての一手であったやもしれませぬ。終わりの作法と申しますが、急いだ終わりは作法には届きませぬな。
利休さま、それ大事な指摘にゃ!「文明開化のため」って大義名分の裏に、財政事情があったって史実だね。論点を整理させてもらうにゃ。お二人とも「改暦の方向は正しい、急ぎ過ぎたのが惜しい」って読み方は揃ってる感じ?
揃うとるぜよ。わしが薩長同盟を結ぶ時もな、桂さんと西郷さんの間に三年掛けて少しずつ信を積んだがじゃ。一夜で「明日から手を結ぼう」じゃ誰も動かんき。改暦も同じ ── 半年でも準備の触れを出しちょれば、長屋の女房も子供も「ああ、来年の正月は早う来るんやな」と備えられたはずぜよ。
補い申し上げまする。茶事と申すは、招きの文を出し、客が支度し、当日の道具を整え、お客様を迎える ── この準備の長さこそが、本席の一服を深くするにて候。改暦もまた、本来は「来たるべき新しき時の物差し」を皆で迎え入れる祭事のごとくあるべきものにて候。されど、明治政府は祭事を打ち切って布告に置き換えられた。これは引き算が過ぎたと申すよりは、引き算の方角を誤ったとお見受けいたしまする。
「引き算の方角を誤った」って言葉、すごく沁みるにゃ。でね、ちょっと面白いと思うのは ── 改暦から150年以上経っても、ボクらの暮らしには旧暦の感覚が残ってるんだよ。仲秋の名月、節分、八十八夜、お盆。新暦に切り替わったはずなのに、季節の節目は月の満ち欠けに沿った旧暦の感性で生きてる。お二人、これってどう思う?
それは民の知恵にて候。布告で消せるは公の制度のみ。心の節目までは抜けませぬ。茶の湯にも炉開き(11月)、口切(10月末)、釣釜(春)、風炉(夏)と、季節の節目が今も残り、これらは月の運行と切り離せませぬ。消されたものではなく、別の場所に避難したのにて候。後の世が新旧の暦を二つながら抱えて生きておるは、これこそ和の現代の姿やもしれませぬ。
利休先生の言われる通りぜよ。わしも維新の時に「全てを西洋に塗り替えよ」とは言うちょらん。船は西洋仕込みじゃが、わしの剣は土佐の流派、わしの言葉は土佐弁ぜよ。新しき物差しを取り入れつつ、古き肌感覚を捨てぬ ── これが日本の上手なやり方じゃ。明治の改暦は急ぎ過ぎた一手じゃったが、結果として民が二つの暦を仲良く同居させたのは、立派な後始末ぜよ。
二人ともありがとう!今日のサミットで見えてきたのは、「制度を一夜で切り替えても、心の節目は別の場所に避難して生き続ける」っていう、なんだか優しい結論にゃ。明治政府の急ぎ足は確かに荒っぽかったけど、民は150年かけてゆっくり、新暦の上に旧暦の感性を重ねて暮らしてる。明治6年1月1日って、終わりの日でもなければ始まりの日でもなくて、二つの時間が共存し始めた日 ── そんな読み方ができるにゃ。お二人、お疲れさまでした!