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触れて感じる、触覚の思い出 ── 政子と龍馬に聞く

気分・話題 触れて感じる、触覚の思い出

北条政子・坂本龍馬・ひますぎニャン

お二人、今日1/4は点字を発明したルイ・ブライユさんの誕生日なんだ。点字って指先で読む文字だよね。それでね、ボクは思ったの ──「触れて感じた、忘れられない思い出」って、お二人それぞれあるかな?目で見るとか耳で聞くじゃなくて、手や足や肌で覚えてること。聞かせてほしいにゃ。

にゃん殿、よき問いじゃ。わらわが真っ先に思い出すは、頼朝公の手の温かみじゃのう。あの方は刀を握り通した手ゆえ、指の付け根に固い豆(まめ)があってな、握り返すたびにその豆が当たって、「ああ、この方は武の方じゃ」と毎度思い知ったものじゃ。目を閉じても、あの手だけは触れただけで分かった。今でも、わらわの掌に小さな記憶が残っておる気がするのじゃ。

政子さま、それは沁みる思い出ぜよ……。わしのは、剣の柄(つか)の手触りじゃきね。土佐の道場で初めて木刀を握った七つの頃、柄に巻かれた鮫皮(さめがわ)の細かい凹凸が掌に食い込む感じを、今でも鮮明に思い出すぜよ。あの感触なしには、わしの剣の修行はなかったがじゃ。後に龍馬と呼ばれる男の出発点は、目で見た刀の煌めきじゃのうて、掌に残った鮫皮の感触ぜよ。

二人とも、もうのっけから泣けるくらい素敵な思い出にゃ……。政子さまの「頼朝公の手の豆」、龍馬さんの「鮫皮の感触」── 触れて覚えたものって、目で見たものより遥かに深く残るんだね。

それはの、にゃん殿。触覚は嘘をつかぬからじゃ。目は装いに惑わされ、耳は言葉に騙される。されど、触れた感じは「その物そのもの」を伝えてくる。頼朝公の手の豆も、龍馬殿の鮫皮も、本人や本物だけが持つ手触りじゃ。わらわは尼となって念珠を毎日握っておったが、四十年握っていると、念珠の珠の凹みまで自分の掌の形に変わっていくのじゃ。物と人が、触れることで互いを覚え合う── これは武家の女として、わらわの確信じゃ。

政子さまの「念珠と掌が互いに覚え合う」── これはもう仏典の一節のような言葉ぜよ。わしも船の舵を握っていた頃を思い出すぜよ。長州から下関、瀬戸内を抜ける航海で、舵輪の木目が掌に染み込むんじゃ。右に切るときの木の応え、左に切るときの抵抗 ── あれは目で見ても耳で聞いても分からん、掌だけが知る情報ぜよ。船乗りはみんな手で覚えるがじゃ。

「掌だけが知る情報」── これボクすごく印象に残ったにゃ。じゃあちょっと聞きたいんだけど ── お二人、現代の人って触れることが減ってると思う?スマホ画面のツルッとした感触ばっかりで、木とか石とか布とか、自然のものに触れる時間が少なくなってるって言われるんだけど。

にゃん殿の言うこと、わらわも憂慮しておるところじゃ。先日、ふと現代の若き者の暮らしを眺めるに、画面の中で指を滑らすだけで一日が終わる者もおると見受けた。あれは「触れているようで、何も触れていない」じゃ。ガラスの板はどれもこれも同じ手触りで、何の手触りも残らぬ。触覚の貧しさは、心の貧しさに繋がるぞ、と老婆心ながら言うておく。

政子さまのご心配、わしも同意ぜよ。されどな、現代の若い衆を見ちょると、ちゃんと違う方角に動いとる者もおるぜよ。陶芸を習う、革で財布を作る、家庭菜園で土を触る、登山で岩を掴む ── 触覚を取り戻そうとする動きは、確かにあるがじゃ。失ったものを取り戻す力は人にはあるき、希望はあると思うぜよ。

龍馬さんのその希望、ボクも嬉しいにゃ。ボク自身もね、最近キャンプとか流行ってるけど、あれって「触覚を取り戻したい」気持ちの表れなのかも。火を起こすときの薪の手触り、テントを張るときのロープの感触 ── 普段触らないものに触れに行く時間だよね。

にゃん殿、それはまこと良き気付きじゃ。「触れに行く」という能動の姿勢こそ、現代の人に必要な作法であろう。わらわの時代は、触れずとも触らねばならぬ生活であったが、現代は「触れずに済む」生活ゆえ、わざわざ触れに行かねば触覚は鈍ってしまうのじゃ。

わしも一つ提案じゃきね。月に一度、自分の好きなものをじっくり触る時間を作る ── これがええと思うぜよ。本でも木の机でも植物でもええ。目を閉じて、ただ触る。それだけで、その物が自分に語りかけてくれるがじゃ。ブライユ殿が指で文字を読むように、わしらも指で物の声を聴けるはずぜよ。

龍馬さんのその提案、ボク今夜さっそくやってみるにゃ!手元の手帳のカバーを目を閉じて触ってみるよ。お二人、今日は触覚の話なのに、なんだか心まで温かくなる時間だったにゃ〜。ありがとう!

#雑談#きょうのできごと#文化