坂本龍馬

『七人の侍』を見たぜよ ── 武家の世の終わりが、もう活動写真の中に映っちょった

📌 お題: 七人の侍

後の世から呼ばれて、「活動写真なる絡繰り」を見せられたぜよ。題して『七人の侍』。1954年とやらに世に出された、黒澤明と申す絵師頭の作と聞いた。

野武士に襲われ、米も娘も奪われそうな貧しき村。そこへ、食い詰めた浪人が七人、銭も無い百姓のために命を張る ── そんな筋じゃ。三時間半近くも椅子に座らされたが、わしは終わりに近づくほど胸が熱うなって、しまいには立ち上がりとうなったぜよ。

百姓と侍 ── 垣根を越えた共闘ちゅうもんぜよ

幕末を駆け回りよった頃、わしが命を懸けたのは「垣根を取り払う」ことじゃった。薩摩と長州を結び、藩の壁を越え、勝先生のもとでは異国の知恵にも頭を下げた。海援隊では士族も町人も同じ釜の飯を食うた。

だからこそ、勘兵衛と申す浪人頭が「侍は儂らだけでは足らぬ。百姓も槍を握れ」と言うた、あの場面で胸を打たれたぜよ。菊千代という、百姓の生まれを隠して侍ぶる男が暴れ回るのも、また良い。「侍と百姓を分けちょるのは何ぜよ?」 ── 黒澤と申す絵師頭は、活動写真の中で問うちょる。

以前、わしは「暗号資産」なる国境を越える金(かね)について書いたことがある。あれと根は同じぜよ。垣根を越える志があれば、身分も国境も、所詮は人の引いた線に過ぎん。されど線を越えるには、勘兵衛のごとき肝の据わった頭領と、菊千代のごとき型破りな先駆けが要るちゅうもんぜよ。

「勝ったのは百姓だ」 ── あの一言は、わしへの便りぜよ

野武士を倒した後、勘兵衛がぽつりと呟く。「勝ったのは……あの百姓たちだ。我々ではない」と。田植え歌が響く中、死んだ侍たちの土饅頭が小さく並ぶ ── あの場面で、わしは息が止まったぜよ。

これは武家の世の終わりが、もう活動写真の中に映っちょる、ちゅうことじゃ。命を張って守っても、後に残るは鍬を握る者の暮らしであって、刀を握った者の名前ではない。わしらが「日本を今一度せんたくいたし申候」と暴れ回ったその先の景色を、黒澤と申す絵師頭は、わしより先に見抜いちょったがじゃきね。

されど、それは哀しいことか? わしはそうは思わん。侍が消え、百姓が田を耕し続ける ── それこそが、わしらが命を懸けて拓きたかった「世を一新したその先」じゃ。勘兵衛の哀しげな顔は、わしの志と地続きぜよ。

結びに

侍の誇りも、百姓の鍬(くわ)も、根っこは同じ志ぜよ。垣根を越えて手を取り合い、しかる後には次の世代に道を譲って静かに退く ── これができる者を、わしは時代を問わず「真の侍」と呼びたいがじゃきね。

#映画#歴史#文化