武家から天皇親政へ
七百年の武家政権が終わった日 ── 政子と太子が読む王政復古
お二人、今日1/3のお題は「武家から天皇親政へ」だよ。1868年1月3日(慶応3年12月9日)、京の御所で「王政復古の大号令」が発せられて、徳川幕府の廃止と新政府の樹立が宣言されたんだ。鎌倉幕府の成立から数えるとおよそ700年続いた武家の政(まつりごと)が、ここで一旦終わったことになる。政子さま、太子さま、それぞれの立場からこの「武家政権の終わり」と「天皇親政の復活」、どう読まれる?
にゃん殿、これはわらわにとって因縁深きお題であるな。わが頼朝公が鎌倉に幕府を開いたるが千百九十二年、それが千八百六十八年に幕を下ろした。実に六百七十六年の長き武家の時代じゃ。 わらわは「尼将軍」と呼ばれ、承久の乱の折に京方の朝廷と対峙した者として、まず一つ申しておきたい。武家政権は朝廷を倒すために作ったのではない。朝廷の権威を借りつつ、領地と御家人の実務を引き受けるための仕組みじゃった。千八百六十八年の王政復古は、その七百年続いた「実務と権威の分業」を一気に解いた一大事じゃ。
政子殿の御見解、深く頷くばかりじゃ。予が推古帝の摂政を務めた頃も、まことの意味での「天皇親政」とは申せなんだ。蘇我馬子殿の力を借り、十七条憲法と冠位十二階を整える ── すべては協働の営みであった。「天皇親政」と申すは、実は理念であって、純粋なる実現の例は飛鳥・奈良の一時期と、後醍醐帝の建武の新政くらいのものじゃ。後醍醐帝も三年で挫折された。千八百六十八年の王政復古もまた、明治帝が御自ら政を執られたわけではなく、薩長土肥の有志と公家が「親政」の名を掲げて寡頭の政を始めた、というのが実情であろう。
二人とも、最初の一発から重い指摘にゃ!「親政は理念であって、純粋な実現はほとんどない」── これ、教科書だと「王政復古で天皇親政が復活!」って書かれがちだけど、実態はそうじゃないんだね。じゃあ ── 千八百六十八年の王政復古って、結局は何が変わって、何が変わらなかったの?
わらわの見るに、変わったのは「権威の見せ方」、変わらなんだのは「実務の構造」じゃ。徳川将軍が幕閣を通して全国の藩を束ねておったのが、明治政府の太政官と参議が県令を通して全国を束ねるようになっただけ ── 仕組みの根は同じじゃ。違いは、権威の頂きが「将軍」から「天皇」に移ったこと、そして領地が「藩」から「県」に組み替えられたこと、それくらいであろう。
政子殿、その読みに予も賛同する。されど一つ加えたきは、権威の頂きが「将軍」から「天皇」に移ったことの重みじゃ。徳川幕府の時代、天皇は京におられ、政の実権からは隔てられておった。それが明治の世になり、天皇は東京に移され、御自ら政の象徴として表に立たれた。これは飛鳥以来千二百年で初めての「天皇が政の中心に表立った時代」じゃ。象徴の位置が変わるは、民の心持ちも変えてゆく。明治・大正・昭和の歩みを見るに、この「天皇を頂きに据えた象徴の構造」は良くも悪くも近代日本の根の一本になった。
太子さま、「象徴の位置が変わると民の心持ちも変わる」っていう指摘、深いにゃ。じゃあちょっと現代に引きつけて聞きたいんだけど ── 戦後の日本国憲法で天皇は「象徴天皇制」になったよね。これは王政復古の流れから見ると、どう位置づけられるの?
わらわの目には、戦後の象徴天皇制こそ、政(まつりごと)の実権と権威の象徴を再び分けた仕組みと映る。鎌倉幕府が始めた「分業」の現代版じゃな。明治の王政復古は七百年の分業を一気に統合しようとして、結局は寡頭の政を生み、軍部の暴走を招き、敗戦に至った。統合の試みが破綻したあと、戦後はもう一度分業に戻った── そう読めば、わが鎌倉の発明は思いのほか息が長かったということじゃ。
政子殿の「思いのほか息が長かった」、まことに含蓄ある言葉なり。予が思うに、「権威の象徴」と「政の実務」を一つの座に据えるは、人の世にとって過大な負荷である。誰一人として、天と地と神と民と外交と財政のすべてを一人で背負える者はおらぬ。分業の方が、結局は民を守る作法なのやもしれぬ。千八百六十八年の王政復古は理念としては美しかったが、実務としては早晩破綻が見えた一手であった ── そう予は読む。
お二人、まとめてくれてありがとう!今日のサミットで見えてきたのは ──「武家から天皇親政へ」っていうのは教科書的な大転換に見えるけど、実態は権威の見せ方が変わっただけで、実務の構造は変わらなかった。そして「親政」の理念は明治を経て戦後に「分業」に戻った。鎌倉のお政子さまが始めた発明が、結局のところ近代日本でも生き続けてる ── そんな読みでしめさせてもらうにゃ。お二人、お疲れさまでした!