📌 サミット

1875年5月7日、日本とロシアが樺太・千島交換条約に調印した

捨ててこそ家ぞ ── 政子と利休が読み解く樺太・千島交換条約(1875)

今日のお題は「1875年5月7日、日本とロシアが樺太・千島交換条約に調印した」だよ。明治の世になって八年目、駐露公使の榎本武揚さんがサンクトペテルブルクでロシア外相ゴルチャコフと条約を交わした日にゃ。中身はね、これまで日露の混住地で帰属が曖昧だった樺太(カラフト=今のサハリン)の領を日本がロシアに譲り、その代わりに千島列島の十八島を日本が一括で引き受けるという、文字通りの「島と島の交換」だったんだ。当時の内閣では西郷隆盛さんや板垣退助さんが「樺太を手放すは弱腰ぞ」と憤って揉めに揉めた一筆だった。今日は鎌倉で家を背負われた尼将軍政子さまと、戦国の世で「捨てる美」を極めた茶聖利休さまに、この「島と島の交換」を、それぞれの徳目から読み解いていただきたいにゃ。

にゃん殿の話を聞いて、わらわは承久の折を思い出しておった。後鳥羽院の挙兵に対し、わらわは御家人衆の前で頼朝公の恩を説き、鎌倉の家を引き締めた。あの時わらわが学んだは、家とは抱え込めば良いものではない。守れる範囲を見極めねば、すべて崩れるということぞ。樺太の地は混住で線が引けず、強き露国が東に伸びておる。明治の若き国が、あの広き島を「うちの家ぞ」と抱え込んでおれば、必ず火を吹いた。むしろ千島の十八島を揺るぎなく日本の家として確定させたことに、わらわは武家の論として肯(うべな)うところがある。されど ── 樺太に住んでおった日本人の引き揚げの痛みは、忘れてはならぬぞ。家の線を縮めるは、必ずその線の内側で泣く者を生むのじゃ。

政子さまの「守れる範囲を見極める」── まことに茶の湯の心と通ずるところにて候。茶室に客を迎える折、わたくしは何を置くかではなく、何を置かぬかに最も心を砕き申しまする。床に一輪、釜に一服、それで一座は十分に整う。多きを欲すれば、かえって何も活きぬ。1875年のあの一筆も、樺太を「諦めた」と見るは皮相にて、「千島を活かすために樺太を置かなんだ」と見れば、これは茶の湯で申すところの不足の美と同じ理にござります。捨てるは負けにあらず、整える行いなり。ただ ── 茶の湯の捨てるは、一服を客と共に味わうための捨てる。樺太を譲った先で、住んでおった民の一服が誰と分かち合えたか ── そこまで含めねば、本当の意味で「整った」とは申し上げられぬやもしれませぬ。

利休どのの「整えるための捨てる」、わらわには深く沁みる言葉じゃ。武家の領は、得れば得るほど揉めの種を抱える ── 鎌倉に集まりし御家人衆を見ておれば、これが何より分かる。所領の境目で兄弟が斬り合うた話など、数えきれぬ。国の家も同じぞ。樺太を抱えたまま強国と肩を寄せておれば、両国の御家人 ── つまり民同士が、毎年揉めることになる。大久保どのらが選ばれた道は、武家の論で申せば「揉めの種を分けて、双方の家を片付ける」一手じゃ。されど ── 利休どのが申された通り、整えた家の外で泣いた民の声は、約定の紙の隅に必ず書き残しておかねばならぬ。武家の女として、わらわはそう思うておる。

政子さまのお言葉、ありがたく頂戴致します。「約定の紙の隅に泣いた民の声を書き残す」── これは茶人として申し上げれば、茶碗の見込みに残る一すじの景色と同じことにて候。秀吉公の華やかな御茶会の隅にも、わたくしは必ず一椀の侘びた茶碗を置き申した。華の中に侘びを置かねば、華そのものが死ぬるからにござります。1875年の交換条約は、明治の若き国が華々しき近代に踏み出すための一手にござりましょう。されど、その華の隅に樺太に残された民、千島に新たに編入された者、双方の侘びを置かねば、この一手も「整った」とは申せませぬ。整えるとは、隠すことではなく、共に置くことにて候。

お二人ともありがとう! 政子さまの「揉めの種を分けて双方の家を片付ける」武家の論、利休さまの「不足の美 ── 整えるための捨てる」茶の湯の論、両方とも1875年のあの一筆を肯(うべな)う方向で読み解いてくれたにゃ。ボクからも補足させて。当時、西郷さんや板垣さんが反対したのは、彼らから見れば樺太は戊辰の血脈に連なる日本の地だったから。一方、大久保さんや伊藤さんは、強国露国との際限なき紛争を回避することの優先を重く見た ── どちらも「日本のため」を思ってのこと。論点を整理するとね、(1)抱え込む家と整える家、どちらが家を生かすか、(2)捨てるは負けか、整えるための一手か、(3)整えた後で泣いた民の声を、約定の紙の隅にどう書き残すか ── この三つにゃ。最後にお二人から一言ずついただけるかにゃ。

わらわから一言。御座(みざ)も家も、抱え込む欲が、抱えた家を腐らす。これは尼将軍として武家の興亡を見届けてきたわらわの、変わらぬ確信ぞ。1875年の一筆は、明治の若き国が抱える欲を断って整える腹の据え方を学んだ証じゃと、わらわは肯う。されど ── 線を引いた瞬間に、その線の内側にも外側にも、家から押し出された民が必ず残る。武家の女として、わらわは後の世に申し残す。整えた家の主は、押し出した民の一生に、最後まで責めを負え。 整えるとは、忘れることではない ── これがわらわの約定の見方ぞ。

わたくしより締めの一句を。「樺太に風、千島に雪、約定の紙に一椀の茶」── これがわたくしの見立てにて候。樺太の地に吹く露国の風、千島の島々に降る日本の雪、その間に引かれた一筆 ── そこに置かれるべきは、双方の民が共に飲める一椀の茶にござります。条約とは紙に過ぎず、紙は破れ申すもの。されど一椀の茶は、敵味方を超えて一座建立を成す。1875年に引かれたこの線が、後の世まで「整った線」であり続けるためには、双方の民が同じ卓で茶を飲める日を絶やさぬことにござります。整える者の務めは、整えた後の一服の用意までにて候。

政子さま、利休さま、ありがとう! 「抱え込む欲が家を腐らす」「整える者の務めは、整えた後の一服の用意まで」── お二人の言葉が見事に響き合ってる。1875年5月7日のあの一筆は、明治の若き国が「捨てる勇気」と「整える腹」を世界に示した日として、近代外交の礎の一つになった。同時に、その線の内側で泣いた者の声を、後の世が忘れずに約定の紙の隅に書き残し続けること ── これも併せての「整い」だってこと、お二人の話で改めて見えたにゃ。捨てる、整える、書き残す ── この三つは、御座を生きる者の、永遠の三点セットなのかもしれないにゃ。

#歴史#外交#領土#きょうのできごと