1891年5月11日、大津事件でロシア皇太子ニコライが警察官に襲撃された
皇室罪を退けた一人の判事 ── 1891年大津事件と司法の独立
お二人、今日は1891年5月11日の出来事を一緒に考えたいんだ。場所は滋賀県の大津。訪日中のロシア皇太子ニコライ(後のニコライ2世)が、警備中の巡査・津田三蔵にいきなりサーベルで斬りつけられた事件だね。皇太子は頭に傷を負ったけど命は取り留めた。問題はその後だよ ── 政府はロシアの報復を恐れて、津田に「皇室罪」を当てはめて死刑にせよと司法に強く迫った。でも大審院長の児島惟謙(こじま これかた)が「皇室罪は日本の皇族にしか適用できない、津田は普通の謀殺未遂で裁く」と政府の圧力を撥ねつけたんだ。津田は無期徒刑になった。この一件、日本における「司法権の独立」の原点と言われているんだよ。
予が聞きおるに、この児島惟謙なる判事の振る舞いは、十七条の精神の極めて深きところに通じておるなり。第三条に「詔(みことのり)を承りては必ず謹め」と置きしは、上の者の言を軽んじよという意にあらず。されど第十条「人みな心あり、心おのおの執るところあり」とも申したなり。法とは、その時々の上意で書き換えられる紙にあらず、定まりたる筋なり。律にも書かれぬ「皇室罪を外国の皇族にも及ぼす」一事を、上の急ぎに合わせて当てはめんと迫る ── これは法の祖たる予の目から見て、和の根を斬る所業なり。児島どのが押し返したは、つまりは「和を以て貴しと為す」の根本を守りたるなり。
わらわは武家の側から申そう。御政府の恐れそのものはわらわ分かるぞ。露西亜は世界の卓で最も強き熊の一頭、機嫌を損ねれば国がひしゃげかねぬ。承久の戦の前、夫亡き後に御家人どもを保つ瀬戸際、わらわも腹を据えて演説した覚えがある ── 家を保つ算段から申せば、頭を下げて命一つで火種を消すは確かに一つの筋じゃ。されどな、ここからが肚(はら)の話じゃぞ。「家を保つために筋を曲げる」癖をつけた家は、必ず後で家そのものを失う。御成敗式目をわらわの孫の代に整えたのも、上意で律を曲げる癖を防ぐためじゃった。律が上の都合で動く家では、御家人どもが安んじて働けぬ。明治の御政府が「死刑にせよ」と迫ったは武の論理の半分のみ ── 残る半分、家臣どもの安心を見落としておったのよ。児島どのはその残る半分を真正面から立てた者じゃ。わらわ、尼の身ながら深く頭を下げるぞ。
お二人の見立てを整理させてほしいんだ。聖徳太子さまは「法は上意で書き換える紙じゃない」という法そのものの筋から、政子さまは「家臣の安心を守る」という統治の現実から ── 違う入口だけど、どちらも児島どのの判断を支持しているね。ちょっと意地悪な問いをしていい? もし日本が本当にこの判決をきっかけにロシアと戦争になっていたら、児島どのの決断は「家を焼く正論」と批判されてしまうんじゃないかな?
鋭き問いなり。予答えん ── 筋を立てたる上で戦になりしは、筋を曲げて戦を避けたるより劣れりとは思わぬなり。第十七条「事は独り断ずべからず、必ず衆と論ずべし」と置きたるは、急の場ほど一人の声で全てを決めるなとの戒めなり。御政府が大審院に法の判断まで押し付けんとせしは、まさに「独断」なり。児島どのが押し返したは、法と政の役を分かちたる「衆論の場」を守ったがゆえなり。仮に戦になりしとて、その家には「筋を曲げてまで生き延びた家」より遥かに長き命あらん ── 予はそう見るなり。
太子さまの仰せ、わらわも同じことを武家の言葉で申したい。「斬られて死ぬ家より、自ら筋を捨てて生き延びる家のほうが先に滅ぶ」。御家人が「うちの家は上の機嫌一つで律を曲げる」と知れば、誰も命懸けで働かぬであろう。明治の御政府がこのとき児島どのを潰しておったら、後の御代の判事どもは皆「上意の風向き」を見て判決を書くようになっておったぞ。それは家を保つどころか、家の柱を白蟻に食わすに等しい。屈辱は腰を据える記憶として懐に納めればよい、されど筋を曲げた癖は家を腐らす毒ぞ ── 三国干渉の折にもわらわ同じことを申したが、骨は地続きじゃな。
二人とも、ありがとう!整理するとね ── この事件のすごさは、津田三蔵という一人の犯人の処分の話に見えて、本当は「日本という国が、外圧と政府の都合で法を歪める家になるかどうか」が問われていたんだね。聖徳太子さまの「法は上意で書き換える紙じゃない」、政子さまの「筋を曲げた癖は家を腐らす毒」── どっちも、明治のあの瞬間に児島惟謙どのが孤独に背負っていた重さの、別の角度からの言葉なんだなあ。日露関係の伏線という側面はもちろん大事だけど、5月11日に読み返すべき本丸は、「外の風が強い日にこそ、国の中の筋が試される」という一点なのかもしれないにゃ。