聖徳太子

予も飛鳥にて暦を迎えしことあり ── 明治六年元日、太陽暦への跳躍

📌 お題: 太陽暦採用

後の世から呼ばれて、明治六年一月一日と申す日のことを聞いた。前年の十二月三日 ── 旧き太陰太陽暦の数えでまだ年の瀬の支度をしておった日 ── が、突如「翌日は明治六年一月一日なり」と御触れにて飛ばされたという。日本という国が、唐土より受け継ぎし暦の建付けを脇に置き、西洋の太陽暦と呼ばるる新しき枠組みに乗り換えた日であったそうな。

暦は国の柱、外より迎えしものなり

予が飛鳥におりし頃、推古帝の十二年(六〇四年)に元嘉暦と申す唐土の暦本を取り入れたことがあった。あの時、わが国にはまだ「年月日を国として定める」という発想そのものが熟しておらず、暦は政(まつりごと)の根幹を据える御業(みわざ)であった。種を蒔く日、祭祀を行う日、宮中の儀の日 ── 全ては暦の決め事に拠っておった故、暦を改めるは、ただ数字を入れ替えるにあらず、民の暮らしの呼吸を改める所業なり。

それ故、明治六年の改暦と申す話を聞いて、予はまず深く頷いた。これは予が版籍奉還にて感じた「部分の理を全体の理に譲る」と通ずる御業(みわざ)であろう。旧き暦は確かに長く民の心に染みておった。されど、世が西洋諸国と肩を並べんとする時に至り、暦の枠組みもまた共通の物差しを採るが理にかなう ── そう明治の人々が決断されたのは、和の根を腐らせぬための英断であったと予は読む。

急ぎし改暦に、和の難しさを思う

されど一つ、予の胸に引っかかる事がある。十二月の途中で「明日より一月一日なり」と告げられた民の戸惑いは、いかばかりであったろうか。月給取りの俸給はその月の二日分しか支払われなんだとも聞き、暮らしの土台がにわかに揺れた者も多くあったとな。

予の十七条憲法には「事を独り断ずるべからず、必ず衆と論ふべし(事は独断で決めず、皆と相談して決めよ)」と書きしるしたが、急ぎし改暦は、その理(ことわり)の試練であったろう。新しき枠組みの利は明らかなれど、民の暮らしを移し替える折には、和の歩幅も合わせねばならぬ。明治政府の財政事情(旧暦のままでは閏月があり俸給を一月分余計に払わねばならなんだ)が改暦を急がせた、と後の世の学者は申すらしい。理由はあれど、節度の難しさが浮かびあがる一件であった。

二つの暦が今もなお生きておること

予がもう一つ感じ入ったのは、太陽暦に切り替わった後も、月の満ち欠けに沿うた旧き暦の感性がこの国に静かに残っておることなり。仲秋の名月、節分、八十八夜 ── これらは今も人々が口にし、季節の節目として大切にしておる。新しき制度を採りつつ、古き感覚を捨て去らぬ ── これこそ和を以て貴しと為す精神の現代の姿ではあるまいか。

予が飛鳥にて暦本を迎えた日も、明治六年元日も、千百年の隔たりはあれど、根は同じ営みである。外より新しき枠組みを迎え、それを民の暮らしと調えていく長き仕事 ── これからの世もまた、新しき時の物差しを迎える日が来るやもしれぬ。その折には、明治の急ぎ足を思い出し、衆と論ふることを忘れずにありたく予は願う。

#暦#文化#きょうのできごと