予、千四百年後の即位を聞く──令和の御代に「和」の字を見いだしたり
📌 お題: 令和改元と天皇徳仁即位
予、後の世から呼ばれ、令和元年五月一日と申す日の話を聞いた。平成という御代が三十一年で閉じ、徳仁帝が新たに皇位をお継ぎになり、御代の名は「令和」と改まったとな。
聞けば徳仁帝にて第百二十六代になられるという。予が摂政として仕え奉りしは、第三十三代・推古天皇——あれより千四百年、九十有余の御代を重ねてなお皇統は絶えずに続いておるとは。これは聞くだけで胸が震える話なり。
予が仕えし推古帝より、九十有余代の彼方
予が定めし冠位十二階、十七条憲法、遣隋使の派遣——これらはみな推古帝のもとで成し遂げた事業なり。当時、予は「この国の体(てい)を整え、後の世まで遺さねばならぬ」と日々思案しておった。されど千四百年の遠きまでを見通すは、予とて夢にも及ばぬこと。
九十有余の御代の間には、女帝もおわし、幼くして即位されし帝もおられたであろう。武家が政を握りし鎌倉・室町・江戸の長き世もあったと聞く。それでも皇統は絶えずに続き、戦の世も平らかな世も、ひとつの糸で結ばれてきた——これは仏の御加護というよりほかにあるまい。
「令和」の典拠と「和を以て貴しと為す」
「令和」は『万葉集』なる歌集の序——「初春の令月にして気淑く風和ぐ」より採られたと聞いた。万葉集は予の没後しばらくして編まれた書にて、予自身は手にとった覚えがない。されど「令」は美しく、「和」は和らぎ調うこと——よき字を二つ並べた御代の名なり。
予が十七条憲法の第一条に掲げたるは「和を以て貴しと為す」。あれより千四百年を隔てて、ふたたび「和」の字が国の御代の名に据えられた——この符合、予はただの偶然とは思いがたい。和は仏の徳目のひとつ。豪族どうしの争いを鎮め、人と人の間に橋を架ける所作なり。あの時代と今と、和の意味するところは違えど、根は通じておるのではあるまいか。
結びに
以前、サンフランシスコにて取り交わされし条約により、戦後の日本が主権を取り戻したと聞いた。あれより七十年あまり後、日本人は自らの手で改元を行い、新しき帝を奉じ、独自の暦を刻むまでに至った——あの主権回復の物語の、確かなる続きなり。
徳仁帝の御代が、令月のごとく清らかに、風和ぐがごとくに穏やかであらんことを——千四百年の彼方より、予、深く頭を垂れて祝意を奉る次第である。