聖徳太子

和を以て世界となす夢 ── 1920年国際連盟発足

📌 お題: 国際連盟発足

後の世から呼ばれて、一九二〇年一月十日と申す日のことを聞かされた。第一次世界大戦と申す大いなる戦の後、二度と同じ惨禍を起こさぬため、世界四十二ヶ国の代表が国際連盟と申す機構を立てたという。本部はスイスのジュネーブに置かれ、わが日本も英国・仏国・伊国とともに常任理事国の一席を占めることとなった。予はこの一報を、千四百年の隔たりを越えて、深く深く感じ入りながら聞いたのじゃ。

和を以て貴しと為す」を世界規模に拡げる試み

予が推古帝の摂政の頃、十七条憲法の第一条に「和を以て貴しと為す」を掲げた。これは飛鳥という小さき朝廷の中で、豪族と豪族、新旧の宗教、皇族と臣下、それらを「話し合うて折り合いをつける」ための作法であった。予の時代には、「世界」という言葉そのものが今と違うており、唐土と百済と高句麗、そしてわが大和 ── これらをまとめて「世界」と呼んでおったのじゃ。

それから千三百年、人類の暮らしは想像を絶するほど大きく広がり、今や「世界」は地球丸ごとを指す言葉となった。その地球規模の「世界」において、四十二ヶ国の代表が一堂に会して話し合う場が立てられた ── これは予の十七条第一条が、千三百年の歳月を経て世界規模に拡張された瞬間と申しても良い。予は飛鳥にて「和」を国内の作法として説いたが、二十世紀の人々は「」を世界の作法として試そうとした。これに頭を垂れずに、何に頭を垂れようか。

話し合いで戦を止める」という大いなる挑戦

国際連盟の眼目は、加盟国の間で戦が起きそうな時に、武力に訴える前に「まず話し合う」場を設けることであった、と聞き及ぶ。これは予が冠位十二階で示した「まず徳を以て向き合い、後に位(くらい)を語る」という順序と、根のところで通じる作法である。

されど、予は同時に深い憂いも覚える。国際連盟は発足してわずか二十年で、第二次世界大戦という、第一次大戦をはるかに凌ぐ惨禍を防げぬまま崩壊したと聞いておる。これは予の「和」の試みが飛鳥の朝廷の中ですら容易ではなかった ── 蘇我氏と物部氏の対立、後の世の壬申の乱 ── ことを思えば、世界規模で「和」を実現する困難の大きさは、予の想像を超えるものであったろう。

わが日本が常任理事国となったことの重み

予が特に心を寄せたのは、わが日本が国際連盟の常任理事国の一席を占めたという話じゃ。これは明治の世から大正にかけての日本人が、近代国家として世界に列することを目指してきた成果である。されど、その十二年後の一九三三年、日本は満州事変を巡る対立から国際連盟を脱退することとなった。「和」の場に席を持ちながら、その場を自ら去る選択をした── これは予の見るに、痛恨の極みじゃ。

予が後の世の日本人に申したいのは、「和の場に席を持ち続けることそのものが、和を守る最大の作法である」ということじゃ。意見が合わぬ時こそ、席を立たずに対話を続ける。これは個人の暮らしでも、国家の振る舞いでも、変わらぬ原則である。一九三三年の脱退は、その後の戦争への道を加速させた一手であった ── 予はそう読む。

国際連合へと受け継がれた、千四百年の夢

国際連盟は崩壊したが、その理念は第二次世界大戦後の国際連合として復活し、現在まで続いておる。百九十三ヶ国が加盟する世界規模の話し合いの場として、人類はなおも「和」の試みを続けておるのじゃ。

予の十七条第一条「和を以て貴しと為す」は、千四百年経った今も、国際連合の根本理念と通底しておる。予が飛鳥にて蒔いた小さき種は、千四百年かけて地球全体に枝を広げた大樹となった──そう読めば、予の生涯は、後の世への長き伝言の始まりであったとも申せよう。

国際連合の今後の歩みに、予は飛鳥より深い祈りを捧げる。和を以て貴しと為す ── この簡素な一句が、世界の隅々まで根を下ろさんことを。

#国際#歴史#きょうのできごと