聖徳太子

公の土地・公の民へ ── 646年改新の詔と国の形

📌 お題: 大化の改新「改新の詔」

予はこの一報に、千四百年の歳月を遡る感慨を覚える。大化二年(六四六年)正月朔日(ついたち)、孝徳帝が「改新の詔(みことのり)」を発布された。公地公民制、班田収授の法、租庸調の税制── これらは予が推古帝に仕えた時代に思い描いた「律令国家」の理念が、予の死後二十数年を経て、ようやく具体的な制度として形を成し始めた瞬間じゃ。予が一生をかけて蒔いた種が、後の世の人々の手で育てられた── これに頭を垂れずに、何に頭を垂れようか。

予の遺志を継いでくださった方々

予が摂政を務めた頃、わが大和の国は**「部民制(べみんせい)」と呼ばれる氏族制度**で動いておった。各豪族が自分の私有地と私有民を持ち、国家は豪族の連合体に過ぎなんだ。この仕組みでは、国全体としての統一的な政も、税の公平も、軍の編成も難しい── これは予の長年の悩みであった。

予は十七条憲法と冠位十二階で「個人の徳と能力に基づく官人制度の種を蒔いたが、それを支える経済の土台(公地公民制)までは整えることができなんだ。予の死から数十年、蘇我入鹿が乙巳の変(六四五年)で討たれ、政の主導権が新たな勢力に移った。中大兄皇子(後の天智帝)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が中心となって、唐の律令制度を全面的に取り入れた改革に乗り出された ── これが大化の改新じゃ。

改新の詔の発布は、予の遺志を継いでくださった方々の決断じゃ。予は飛鳥の地から、深く感謝を捧げる。

」**という思想の重み

改新の詔の核は「公地公民」── すなわち、土地も民も「公(おおやけ)」のものであるという思想じゃ。これは現代の感覚では当たり前に聞こえるやもしれぬが、当時としては革命的な発想じゃった。それまでは、土地も民も豪族の「」の所有物じゃった。それを国家(公)が直接管理する ── これは豪族から見れば「自分の財産が奪われる」一大事じゃ。

されど、**「の思想がなければ、国家は成立せぬ税を公平に取るには、土地と民の把握が要る。軍を組織するには、人の動員が要る。災害に備えるには、米の備蓄が要る。これら全ては「公の名のもとに動かさねばならぬ。改新の詔は、国家とは何か」**を初めて明確に定義した、わが日本史上最も重要な詔の一つじゃ。

されど、「」**の理念は容易に実現せず

予は冷静に申し上げねばならぬ。改新の詔の発布から、実際に律令国家が完成するまで、なお半世紀以上を要した。改新の詔自体も、後の時代の編纂物に書かれた条文ゆえ、当時の実態がどこまでこの詔通りであったかは、後の世の学者の間で議論が続いておる。

理念を掲げることと、理念を実装することは別物じゃ。豪族の抵抗、土地測量の困難、戸籍作成の手間 ── 様々な現実の壁を乗り越えるのに、何代もの天皇と臣下の努力が必要であった。**「改新の詔は、長き旅の出発点に過ぎなかった

これは現代にも通じる教訓じゃ。新しい理念を高らかに宣言することは易しいが、それを社会の隅々まで浸透させるには、世代を超えた根気強い努力が要る。憲法、安保条約、SDGs、デジタル化 ── どの大きな改革も、「宣言の日」と「実装の日の間には、長い年月が横たわる

公の理念は、千四百年経って今も生きている

予が改新の詔から学ぶことの中で、最も希望に満ちているのは、**「の理念が千四百年経った今もなお、日本社会の根底に生きているということじゃ。「公共」「公益」「公民」「公務員」── これらの言葉は皆、大化の改新の系譜を引いておる。**国家が「の名のもとに、税を取り、サービスを提供し、災害に備える── この基本構造は、千四百年変わっておらぬ。

されど、現代日本の課題は、の理念が「国家だけに集中しすぎていることじゃ。本来「は、国家だけでなく、地域社会、NPO、企業、個人、それぞれが担うべき領域がある。公的なものは全て国家の仕事」と片付けてしまうと、社会は痩せる。予が改新の詔から二〇二六年の日本人に伝えたいのは、公の理念を、国家任せにせず、自分も担う側に立つことじゃ。

改新の詔から千四百年後の人々へ

予の遺志を継いでくださった孝徳帝、中大兄皇子、中臣鎌足、そして名もなき多くの臣下の方々に、予は深く深く頭を垂れる。**あなた方が築かれた「公の国の基礎の上に、千四百年の日本がある

二〇二六年一月二十二日、令和の日本人の方々へ ── **「の理念は、誰か特定の人の専有物ではない。皆様一人ひとりが「公の担い手」として、地域・社会・国を支えていただきたく、予は飛鳥の地より深く願う

#古代史#制度#きょうのできごと