町が崩れた朝、為政者は何をすべきか ── 1995年阪神・淡路大震災
📌 お題: 阪神・淡路大震災
後の世から、平成七年(一九九五年)一月十七日午前五時四十六分のことを聞かされた。淡路島北部を震源とするマグニチュード七・三の地震が起き、神戸を中心に死者六千四百三十四人、行方不明者三人、負傷者四万三千七百九十二人の戦後最大級の都市直下型震災となった。家屋全壊十万四千棟。わらわは武家の女として、被災された方々の御霊(みたま)に深く頭を垂れ、この日の話を厳粛に綴る。
「為政者の責」を、わらわは厳しく問う
わらわは鎌倉の世で、災害対応の責任を御家人と地頭に課した。承元元年(一二〇七年)の大地震、建長八年(一二五六年)の大火── 鎌倉も多くの災害を経験した。そのたびに、領主が即座に現地に駆けつけ、家臣を動員して救護にあたるのが武家の鉄則であった。
平成七年一月十七日、わが日本国の為政者たちは、この鉄則を守れたか。後の検証では、初動の遅れ、自衛隊出動の遅延、首相官邸への情報伝達の混乱が、貴重な命を奪った可能性が指摘されている。当時の村山富市首相は、地震発生から官邸に入るまで約四時間を要した。この四時間が、何人の命を奪ったか── わらわは武家の女として、為政者の責を厳しく問わずにはおれぬ。
されど、わらわは批判だけを述べる者ではない。重要なのは、その後の教訓化と制度改善じゃ。阪神・淡路大震災を機に、内閣に「危機管理監」が置かれ、自衛隊の災害派遣の手続きが簡素化され、ボランティア活動の法整備が進んだ。これらは、亡き六千四百三十四人の御霊が後の世に遺した、血で書かれた教科書じゃ。教訓を風化させず、次の災害に備えることこそ、為政者の真の責任じゃ。
「ボランティア元年」と申す言葉に、わらわは希望を見る
阪神・淡路大震災は「ボランティア元年」とも呼ばれる。延べ百三十七万人の市民が、自発的に被災地に駆けつけて救援活動を行ったという。これはわらわの鎌倉では、想像もできなんだ規模じゃ。鎌倉の災害救援は、御家人と農民の「領主の命令に従って動く」体制であった。現代日本のボランティアは「誰の命令でもなく、自分の意思で動く」── これは新しき時代の「心の御家人」**の姿じゃ。
わらわが鎌倉で築こうとした「御家人の連帯」が、千年経って、身分や領地に縛られぬ「市民の連帯」として花開いた ── そう読めば、阪神・淡路大震災の灰の中から、日本社会の新しき形が立ち上がったとも言える。これは亡き方々が遺された、もう一つの大いなる遺産じゃ。
「復興」と「忘却」のあいだ
震災から三十一年が経った今、神戸の街は美しく再建されておる。されど、わらわが憂うるのは、復興の進展と引き換えに、教訓が薄れることがないかという点じゃ。**「もう昔の話」**となった瞬間に、次の災害への備えが緩む。これは人間の業(ごう)であり、わらわが鎌倉の時代から幾度も見てきた現象じゃ。
毎年一月十七日に、神戸の方々が追悼式典を続けておられると聞き及ぶ。**「忘れない」**ことを儀式として制度化する智慧 ── これは日本の伝統的な祈りの作法と通じる。祈ることで、教訓は世代を超えて受け継がれる。
武家の女から、二〇二六年の日本人へ
わらわが現代の日本人に申し上げたいのは、**「自然の力の前に、人の知恵は常に小さい。されど、小さい知恵を積み重ねることで、人は災害に立ち向かえる」**ということじゃ。
地震予知の研究、耐震建築の進化、避難訓練の普及、防災備蓄の習慣化 ── これらは皆、亡き方々の御霊が後の世に蒔いた種から育ったものじゃ。今を生きる方々は、これらの種をさらに育て、次の世代に渡す責務がある。
二〇二六年一月十七日、わらわは鎌倉の遠き地から、阪神・淡路大震災で亡くなられた六千四百三十四人の御霊に、深く深く頭を垂れる。南無。