北条政子

忠を解かれぬまま生きた28年 ── 1972年横井庄一発見

📌 お題: 横井庄一発見

後の世から、昭和四十七年(一九七二年)一月二十四日のことを聞かされた。南洋のグアム島のジャングルで、現地住民により元日本兵・横井庄一(当時五十六歳)が発見されたという。敗戦から二十七年、太平洋戦争終結を知らぬまま、ひたすら密林に潜伏し続けたお方じゃ。後に日本の地に降り立たれた時、「恥ずかしながら、帰って参りました」と語られた言葉は、後の世の流行語にもなったと聞き及ぶ。わらわは武家の女として、このお方の二十七年の歳月に、深い敬意と幾つかの問いを抱える。

を解かれぬまま二十七年── 武家の女として理解できる

わらわは武家政権の主婦じゃ。**「主の命令なくして撤退せずは、わが鎌倉幕府の御家人にとっての絶対原則じゃった。承久の乱で戦った御家人衆も、もし主が「戦え」と命じたまま亡くなれば、その命令は解除されぬ ── そう信じて生涯戦った者もおる。横井庄一殿は、まさにこの命令解除なき兵として、二十七年を生き抜かれた

これは武家の女として、痛いほど理解できる心情じゃ。日本軍では「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓が叩き込まれた。横井殿が敗戦の噂を耳にしても「それは敵の謀略だ」と疑い、潜伏を続けたのは、軍人としての一貫性ゆえじゃ。わらわは横井殿の生き様を、批判する気には到底なれぬ

されど、二十七年は長すぎる ── 国家の責任を問う

一方で、わらわは厳しく問わねばならぬ。横井殿が二十七年もジャングルに潜伏し続けたのは、果たして個人の信念だけの結果か

戦後、日本政府は南洋に取り残された旧日本兵の捜索を、徹底的に行ったとは言いがたい。戦没者の遺族年金は支給されたが、生存者の捜索体制は限られていたと聞き及ぶ。横井殿の発見は、現地の住民による偶然の遭遇によってもたらされた。**国家が「最後の一人まで連れて帰るという強い意志を持っていれば、もっと早く発見できたはずではないか

武家政権の感覚で申せば、主君は家臣の生死を最後まで気にかけるのが当然じゃ。御家人が遠方の戦地で消息不明になれば、何年経っても捜索の使者を送るのが、わが鎌倉の作法じゃった。戦後の日本政府は、横井殿のような兵に対して、その作法を全うできたか── これは戦後日本が向き合うべき重い問いじゃ。

恥ずかしながら、帰って参りました」── この一言の重み

横井殿が帰国された時、空港で「恥ずかしながら、帰って参りました」と語られた言葉に、わらわは涙を流した。生きて帰ったことを恥じる」── これは戦陣訓に縛られた世代の心情がにじみ出た一言じゃ

されど、わらわは横井殿に伝えたい ── **「生きて帰ったことは、決して恥ずかしくない」**と。むしろ、二十七年の歳月を生き抜き、家族のもとに帰った勇気は、何にも代えがたき尊さじゃ。生き残ることもまた、戦の作法の一つじゃ。死ぬことだけが武士の道ではない。生きて、家族の元に戻り、新しい時代を見届ける ── それもまた立派な使命じゃ。

横井殿が遺された問い ── 現代日本人へ

横井殿は帰国後、参議院議員選挙に立候補されたり、テレビに出演されたりと、第二の人生を歩まれたと聞き及ぶ。戦中の経験を語り続けることで、後の世代に戦争の不条理を伝える役割を果たされた。これは元兵士として、最も貴重な仕事の一つじゃ。

二〇二六年の今、太平洋戦争を直接体験した方々はほとんど亡くなられた。**横井殿のような「戦中を生き、戦後を生き、戦争の記憶を語り継いだ世代の証言を、わらわたちはもう聞くことができない。これは戦後百年を迎えようとする日本の、最大の悲しみの一つじゃ。

武家の女から、横井殿の御霊へ

横井庄一殿は二〇〇五年に九十四歳で亡くなられた。敗戦から潜伏二十七年、帰国後の三十三年 ── 戦争と平和、絶望と希望、両方を生き抜かれた稀有な生涯じゃ。

二〇二六年一月二十四日、横井殿の発見から五十四年。わらわは鎌倉の遠き地から、深く頭を垂れる。横井殿、二十七年の孤独な歳月、そして帰国後の戦争体験伝達のご努力、まこと有り難く存じます。安らかにお眠りくださいませ

そして令和の日本人へ、わらわから一言:戦争で消えていった一人ひとりの兵の物語を、忘れずに語り継ぐこと── これこそ、横井殿の魂への最大の供養じゃ。

#歴史#戦争#きょうのできごと