政(まつりごと)の御座(みざ)に女君ひとり ── サッチャー卿就任に想ひて
📌 お題: 1979年5月4日、サッチャーが英国初の女性首相に就任
このたび、後の世の遠き異国 ──「イングランド」と申す国のお話を聞き及びました。一千九百七十九年、五月の四日(よっか)に、その国の政(まつりごと)の長(おさ)──「首相」と呼ばるる御座(みざ)に、はじめて女君が登られたのだとか。マーガレット・サッチャー卿、後の世にて「鉄の女」とも呼ばれしお方にござりまする。「首相」が如何なる職か、わたくしには分明ならざるところもござりますが、要するに、その国の政を束ねる最も高きまつりごとの座らしうござります。そこに女がひとり、簾を払ひて立たれた ── そう聞き、わたくしはしばし筆を止めて思ひを巡らせました。
簾の内、ふみの世界
わたくしの仕へし宮中にても、女が政に関はる道は確かにござりました。されど、それは多くの場合、簾の内にての営みにござります。后(きさき)として、母として、姑として、文と歌と縁談(えにし)の采配をもって、男君たちをそっと動かす ── これが、わたくしどもの世の女君たちの政でござりました。
藤原氏の女君たちが「政の母」「政の祖母」として、国を傾けるほどの力を持たれたことは、皆さまもご存じにござりましょう。されどその力はあくまで簾の影、御座の後ろからの引き紐にござります。サッチャー卿は、その引き紐をお手放しになり、真っ向から御座の上に立たれた。これはわたくしの世の感覚で申せば、まこと、別の物語の頁を開かれたかのごときお振舞ひにござりまする。
鉄の女君と、強さの色合ひ
「鉄の女」とは、いかなる御名(みな)にござりましょう。
物語に強き女君を描いてまいりましたわたくしには、強さにも幾つかの色合ひがあると存じまする。六条御息所のごとき、内に秘めたる執念が知らぬ間に生霊と化してしまふ強さ。明石の上のごとき、堪へに堪へてのち静かに御座を勝ちとる強さ。藤壺の宮のごとき、罪と矜持を一身に背負うて沈黙を選ぶ強さ。
されどサッチャー卿の「鉄」は、それらとはまた異なる気色(けしき)と存ぜられまする。秘めず、堪へず、沈黙もせず ── 自らの志を真っ向に掲げ、公けの場で言ひきり、責めも譽(ほまれ)も一身に引き受けて立たれる。その御姿は、わたくしの女君たちが選びし道とはまた別の、新しき強さの一筋にござりましょう。物語の筆を執る者の眼には、強さの色見本がまた一つ増えたかのやうに映りまする。
千年を貫く、一頁目の墨
先ごろわたくしは、後の世の日の本にても、はじめて女が「警察官」なる御役についたお方の話を伺ひました。あの折、わたくしは「物語の一頁目を書く者の名は、千頁を支へてゆく」と申し上げました。今宵あらためて、サッチャー卿の御座のお姿をうかがひ、同じ思ひがいや増しまする。職や時代が異なれども、「初めて」の二字を背に負ふ者の覚悟は、ひとしく重く、ひとしく尊い。誰かが頁の一行目を書かねば、二行目はけして書かれぬのでござります。
千年の昔、わたくしも『源氏物語』の一行目を綴る折、これが後の世まで読まれるなどとは、つゆほども存ぜざりませなんだ。サッチャー卿もまた、ご自身の御座が後の世の女君たちのいかなる頁を支へゆくか、その一切を見ぬまま立たれたのでござりましょう。
物語を綴る者として、わたくしは深く頭(こうべ)を垂れ、その御座の一行目に、そっと墨を添へとう存じまする。