わしが斬られて二月足らずで号令が出たがぜよ ── 1868年1月3日、王政復古
📌 お題: 王政復古の大号令
後の世から呼ばれて、わしの死後すぐの話を聞かされたぜよ。慶応三年十二月九日(後の世で言う千八百六十八年一月三日)、京の御所にて「王政復古の大号令」が発せられ、徳川幕府の廃止と新しき政府の樹立が宣言された日じゃ。わしが京の近江屋で斬られたのが同じ年の十一月十五日じゃき、息を引き取って二十四日後のことになる。後の世の歴史書では「龍馬の構想が薩長同盟と大政奉還を経て王政復古へと結実した」と書かれちょるそうな。されど、わしが斬られた瞬間にはまだ何一つ実っちょらなんだ ── そのことを後の世のみなさんに知っちょってほしいがぜよ。
船中八策は半分実現、半分は捨てられた
わしが「船中八策」を書いたのは慶応三年六月、京と長崎を行き来する船の上じゃった。その第一条が「天下の政権を朝廷に奉還し、政令はよろしく朝廷より出ずべき事」── つまり政の中心を朝廷に戻すちゅう構想じゃ。これは王政復古の大号令で叶うた。
されど、わしが書いた第二条「上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛し、万機よろしく公議に決すべき事」── 上下二院制の議会を作るちゅう発想は、王政復古の時点ではまだ実現しちょらん。実際に帝国議会が開かれるのは明治二十三年、二十二年も先のことぜよ。
つまり王政復古の大号令は、わしの構想の半分だけを急ぎ足で実現した ── これがわしの見立てぜよ。幕府を倒すことには成功したが、新しき政の形を「皆で議す」ところまでは届かなんだ。その代わり、薩摩・長州・土佐・芸州の四藩の有力者が主導する寡頭の政(少数支配)に移っていった。これがその後の不満や反乱、士族の蜂起の根の一つになったがぜよ。
わしが居っても、御維新は止められんかったろう
されど、わしは死んだ後の十年(明治十年の西南戦争まで)を、こうも読むぜよ。わしが居っても、流れは止められんかったろうちゅうことじゃ。慶応三年の時点で、すでに薩摩の西郷さん・長州の桂さん・公家の岩倉さんは「徳川を完全に潰さねば新政府は立たぬ」と腹を決めちょった。
わしは生前、徳川慶喜公にも「平和裏の禅譲」を働きかけ、十一月の大政奉還は実現させた。されど、それでは薩長の不満は収まらず、結局は鳥羽伏見の戦から戊辰戦争へと雪崩込んだ。わしの構想は理想じゃったが、現実は理想を待ってくれんかったぜよ。これは志士として悔しいが、認めねばならぬ真実じゃ。
「号令」と「合議」の違いを後の世が学ぶべきじゃ
千八百六十八年一月三日のあの日、京の御所では岩倉具視公が王政復古の大号令を読み上げた。明治新政府の出発じゃ。されど後の世の歴史を見るに、新政府はその後も「号令」で動くことが多かった。秩禄処分、廃藩置県、太陽暦採用、徴兵令 ── 民の声を待たず、上から決めて下に流す形ぜよ。
わしが船中八策で描いたのは、号令ではなく合議の政じゃった。明治政府が議会制を整えるのに二十二年、普通選挙にいたっては明治政府の発足から五十七年もかかった。新しき時代の幕は号令で開けても、新しき時代の中身は合議で熟していくしかない── わしが現代のみなさんに伝えたいのは、この一点ぜよ。号令の早さに目を奪われず、合議の遅さを大事にしてほしいがじゃ。