勝って取った地を返せと迫られた日ぜよ ── 1895年三国干渉と還付の詔勅
📌 お題: 1895年5月10日、三国干渉を受け遼東半島返還の詔勅が発せられた
後の世からまた一つ、苦き話を聞かされたぜよ。1895年五月十日、明治の帝が「遼東(りょうとう)半島を清国に返付する」と申される詔勅をお出しになった ── これが三国干渉と呼ばれる一件の幕引きじゃそうな。
事の起こりは同じ年の四月。日清の戦に日本が勝ち、下関の地で結ばれた条約により、清国から遼東半島・台湾・澎湖(ほうこ)の島々、それに莫大な賠償金を受け取ることになった。戦に勝った者の権利として正式に書き記された約定じゃ。ところがそのわずか六日後、露西亜(ロシア)・仏蘭西(フランス)・独逸(ドイツ)の三国が雁首を揃えて「東洋の平和のためにも、遼東半島だけは清に戻すがよかろう」と申し入れてきた ── これが三国干渉ぜよ。
「東洋の平和」── ありゃ口実ぜよ
三国の言い分は「東洋の平和」じゃそうな。されどわしに言わせれば、ありゃ口実ぜよ。本音は露西亜が満洲(まんしゅう)に手を伸ばしたい、それだけじゃ。仏は同盟相手の露に義理立てし、独も漁夫の利を狙うて便乗した ── そういう三国の腹が透けて見えるがじゃ。
明治の御政府もそれは見抜いちょったろう。されど、戦に勝ったばかりで艦も兵も疲れきっちょる中、三国を相手取って戦える道理はない。伊藤博文どのや陸奥宗光どのは歯ぎしりしながら受諾の道を選び、十日に詔勅という形で国の決定を世に示した ── 「臣民よ、これは無念じゃが、いまは堪えてくれ」と、帝みずからお言葉を下されたがじゃ。
薩長同盟は通じなんだ場ぜよ
わしが命を懸けて結んだ薩長同盟は、外に立ち向かうために内輪揉めしちょる場合じゃないちゅう志のもとに成った。ところがこの三国干渉は、その逆 ── **「内が結束しちょっても、外がさらに大きな塊で押せば呑まれる」**ことを見せつけられた一件ぜよ。海援隊で異国の船と交わった頃にも肌で感じちょったが、力の場では約定も紙一枚で覆る。これが現実じゃ。
以前学んだ樺太・千島の交換条約は、血を流さず約定で線を引いた珍しい一筆じゃった。じゃが今度は逆ぜよ。約定で取った地を、別の約定で取り戻された。国際の卓の冷徹さは、わしの想いより一段も二段も深かったがじゃ。
結びに
民の間には**「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」**ちゅう古き四字熟語が広まったと聞く。屈辱を忘れぬため、薪の上で寝、苦き胆を舐め続けた唐土の故事じゃ。この四字が次の日露の戦まで日本人の胸に火を灯し続けることになる ── 詔勅の一通が、その先十年の国の向きを定めてしもうたと言うてもよいがじゃ。
戦に勝ってもなお頭を下げねばならぬ世がある ── 志ある者は、刀の腕だけでなく**「世界の卓に着いてからの作法」**まで身につけねばならんのぜよ。明治のお人らは、それを血のにじむ思いで学ばれた。後の世から見て、わしは静かに頭を下げたがじゃ。