坂本龍馬

金の鎖で世界とつながる賭け ── 1930年金解禁

📌 お題: 金解禁

後の世から呼ばれて、千九百三十年一月十一日のことを聞かされたぜよ。浜口雄幸内閣井上準之助蔵相が「金解禁」と申す経済の大手術を断行した日じゃ。これは大正六年から続いた金輸出禁止を解き、日本の通貨「」を金(きん)に裏付けて、世界の主要国と同じ土俵で為替を動かす、という決断であった。されど、後の世が知る通り、この一手は世界恐慌のただ中で打たれ、昭和恐慌を深刻化させ、農村の身売り・大量失業・銀行倒産を招くことになったぜよ。

海援隊の通商感覚から読むぜよ

わしは脱藩後、長崎で亀山社中(後の海援隊)を立ち上げ、英国・阿蘭陀の商人と銃や船を取引した。この時代に世界の商いの土俵がどうなっちょったか、わしは肌で知っちょるぜよ。当時すでに、英国は金本位制(一八二一年〜)で世界の銀行家じゃった。金は国際信用の動かぬ証であり、金を裏付けに通貨を発行している国でなければ、世界の商人は安心して取引できなんだ。

それゆえ、明治・大正の日本が金本位制に入っちょったのは、世界の商いに加わる入場券を持つことに等しかった。第一次世界大戦の混乱で金輸出禁止に踏み切ったが、戦後の復興期に「もう一度金の鎖につなぎ直す」という判断は、わしの志士の目には、やむを得ぬ方向性じゃったと映る。

されど、時期と方法が問題ぜよ

問題は、井上準之助蔵相が選んだ時期と方法じゃ。

千九百二十九年十月、ニューヨーク株式市場の大暴落(暗黒の木曜日)が起きた。世界中の経済が冷え込み始めた、まさにそのタイミングの三ヶ月後 ── 千九百三十年一月に、日本は旧平価(戦前と同じ円高水準)で金解禁を断行した。世界が金本位制から離脱し始めた時期に、わざわざ重い円高で金本位制に入る── これはわしの感覚では、雪の中で全裸で寝ようとする者を見る心地じゃ。

井上蔵相と浜口首相は、「緊縮財政と通貨防衛で日本経済を清めよ」という確信を持っちょった。輸出企業を見捨て、不況の苦痛を耐えて、強い円を取り戻せば、長期的には日本が世界の信用を勝ち取れる── という賭けじゃ。されど、この賭けの代償を払うたのは政治家ではなく、農村で娘を身売りする家、工場を追われた職人、貯金を失った庶民じゃった。

政策の罪は、指導者の身に返ってくる

わしが特に胸が痛んだのは、千九百三十年十一月、浜口雄幸首相が東京駅で右翼青年に銃撃された一件じゃ。直接の原因はロンドン海軍軍縮条約への反発と言われちょるが、背景には金解禁による庶民の困窮が広がり、政府への不信が暴発寸前まで膨らんでいたことがある。浜口首相は翌年八月に銃撃の傷が元で亡くなり、井上蔵相も千九百三十二年二月に血盟団員に暗殺された。政策の罪は、巡り巡って指導者の身に返ってくる── これは志士の世界の鉄則じゃった。

経済政策には「最悪のタイミングを避ける」という智慧が要る

わしの結論はこうじゃ。経済政策には**「理屈の正しさだけでなく、タイミングの読み」**が要る。井上準之助蔵相は理屈の上では正しき道を選んだ。されど、世界恐慌のさなかに重い円高で金解禁する判断は、理屈と現実の温度差を読み誤ったぜよ。

これは現代の経済政策にも当てはまるぜよ。「正しい政策」でも、タイミングを誤れば人を殺す。中央銀行の金利判断、税制の改正、規制緩和 ── 全て同じじゃ。理屈で計算する者は、現実の人の暮らしを見ぬまま、机の上で正解を出して満足する。これは志士の道とは正反対の振る舞いぜよ。

千九百三十年一月十一日の金解禁は、後の世の経済学者から「戦間期の最大級の政策失敗」と評されちょる。わしから後の世の指導者へ一言:理屈は床の間の掛軸にあらず、台所の鍋にあるものぜよ。常に台所を覗いて、その温度を確かめてから動いてほしいがじゃ。

#経済#歴史#きょうのできごと