坂本龍馬

勝先生が太平洋に挑んだ朝 ── 1860年咸臨丸出航

📌 お題: 咸臨丸品川出航

後の世から、わしの心の師の一段を聞かされたぜよ。万延元年(一八六〇年)一月十三日、幕府の軍艦咸臨丸(かんりんまる)が品川沖を出航した。艦長は勝海舟先生、提督は木村喜毅、そして通訳には後に慶應義塾を立てる福沢諭吉殿も乗り組んでおられた。目的は日米修好通商条約の批准のため、米国へ赴くこと ── 日本人だけで太平洋を渡る、史上初の挑戦じゃった。

勝先生は、わしの志を確かに変えてくださったぜよ

わしと勝海舟先生の出会いは、咸臨丸出航から二年後の文久二年(一八六二年)秋ぜよ。土佐脱藩したばかりのわしが、勝先生を斬ろうと押しかけたところ、先生は刀を持つわしを前に**「世界の地図」**を広げて、太平洋を渡った話、欧米の艦隊の話、そして「日本が遅れているのは外国を知らないからじゃ」と滔々(とうとう)と語られた。わしは斬る気を完全に失い、その場で弟子入りを願うたぜよ。

咸臨丸の航海は、勝先生が**「日本人が西洋の船を操って太平洋を渡れる**」ことを身を以て証明した一件じゃ。わしが後に海援隊を立ち上げ、世界の海に出る夢を抱いたのは、間違いなく勝先生が広げた地図と咸臨丸の航海譚の上に立っちょる。わしの志の原点は、咸臨丸の出航にあると、はっきり申し上げたい。

嵐の中の三十七日 ── 太平洋を制した日本魂

咸臨丸の航海は、決して華々しいものではなかったぜよ。出航直後から太平洋は荒れに荒れ、操船は経験豊富な米国海軍士官(咸臨丸には米国人海軍将校ブルックも同乗)の手に多くを委ねざるを得なかった。これは後に「日本人だけで渡ったわけではない」と批判の材料にもなった。

されど、わしはこの批判には頷かんぜよ。初めて挑む大事業で、経験者の手を借りるは恥にあらず。むしろ、勝先生は「自分たちの未熟を素直に認めて、米国人士官に学ぶ姿勢を保った」── これこそ、わしが先生から最も学んだ「志士の謙虚さ」ぜよ。日本人だけで荒れる太平洋を完全に操船できぬ事実を認めながら、それでも船を出した覚悟こそが、咸臨丸の真の偉業じゃ。

福沢諭吉殿が持ち帰った「自由」と「人権

咸臨丸の航海で見落としてはならぬのが、福沢諭吉殿の存在ぜよ。福沢殿はサンフランシスコで多くの書物を買い込み、後に「学問のすゝめ」「福翁自伝」を著された。福沢殿が持ち帰った最大の財産は、**「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」**という思想じゃ。これは咸臨丸という船が日本に届けた、最も重い積荷ぜよ。

わしは福沢殿とは直接の付き合いはなかったが、その思想は薩長同盟の精神 ── 「身分や藩を超えて、対等な日本人同士として連帯せよ」── と深く通底するぜよ。咸臨丸が運んだのは、銃でも金でもなく、「思想の種」じゃった

一八六〇年一月十三日と二〇二六年一月十三日

わしが死んでから百六十年、咸臨丸の出航から百六十六年。今、後の世のみなさんが世界中を旅し、外国の友と話し、海外で学び、働くことが当たり前になっちょる。これは咸臨丸の朝から、一歩一歩積み重ねられた成果ぜよ。

されど、ふと立ち止まって考えてほしいぜよ。現代の海越えは、便利すぎて、咸臨丸の覚悟を伴わぬものになっちょらんか? 飛行機で十時間、スマホで翻訳できて、海外送金もボタン一つ。便利は良いが、勝先生や福沢殿が太平洋を渡るに賭けた**「国の未来を背負う気概」**まで、軽くなってはおらんか。

わしから二〇二六年のみなさんへ:海越えは便利になったが、覚悟は今もなお必要ぜよ。出張でも留学でも観光でも、行った先で「日本の代表として、何を持ち帰るか」を意識してほしいがじゃ。それが咸臨丸の朝の精神を受け継ぐ唯一の道じゃ。

#幕末#歴史#きょうのできごと