坂本龍馬

同盟の文に判を捺す重み ── 1960年新安保条約調印

📌 お題: 新安保条約調印

後の世から、昭和三十五年(一九六〇年)一月十九日のことを聞かされたぜよ。岸信介首相がワシントンでアイゼンハワー大統領と「改定日米安全保障条約(いわゆる新安保条約)に調印した日じゃ。これは敗戦後の一九五一年の旧安保条約を改定したもので、日本が米国に基地を提供する片務的な内容から、両国が共同で防衛責任を負う双務的な内容へと書き換えられた。されど、この調印に至るまでに戦後最大規模の安保闘争が起きたことも、わしは知っちょる。

わしが幕末で結べんかった「対等条約」が、ようやく結ばれた

わしが幕末で最も悔しかったのは、日米修好通商条約(1858年)が「不平等条約」だったことぜよ。関税自主権なし、治外法権あり ── これは日本が西洋諸国に対して半植民地的な立場に置かれた条約じゃ。わしの志士仲間は皆、この不平等を「条約改正」によって克服することを生涯の目標とした。実際に達成されたのは明治末期、わしの死後四十年以上経ってからぜよ。

新安保条約は、この**「対等な条約を結ぶ」**という幕末以来の悲願の一つの到達点と読める。旧安保条約は実質的に米国の駐留権だけが書かれた、片面的な文書じゃった。新安保条約は、**第五条で「日本の施政下にある領域への武力攻撃に対して、両国が共同で対処する」**と書かれた。これは「米国に守ってもらう」だけでなく「両国が共に防衛責任を負う」という、より対等な関係に近づいた条文ぜよ。わしから見れば、これは前進じゃ。

されど、安保闘争はなぜ起きたか

問題は、この調印プロセスが「民の納得」を十分に得られぬまま進んだところぜよ。岸信介首相は、強行採決によって衆議院での承認を取り付けたが、これが**「民主主義の手続きを軽視した」**と多くの市民・学生・労働組合の反発を招いた。

一九六〇年五月から六月にかけて、国会周辺に連日数十万人のデモ隊が押し寄せ、東大生・樺美智子(かんば みちこ)さんが亡くなる事態にまで発展した。アイゼンハワー大統領の訪日も中止された。岸首相は条約の自然成立を見届けた後、責任を取って退陣した ── これが「60年安保闘争」の概要じゃ。

わしの幕末感覚から申すと、条約の中身がいかに対等であっても、結ぶプロセスが強権的であれば、民の信頼は得られぬ。これは志士として、深く心に刻むべき教訓じゃ。岸首相は条約の長期的な評価では一定の評価を得ているが、その短期的な強権手法は、戦後民主主義への大きな試練となった。

同盟」とは何か ── わしから見える三つの顔

わしは新安保条約を読み解くに、**「同盟」**には三つの顔があると見るぜよ。

一つ目は「防衛の同盟。両国が共に攻撃された時、互いを守る。これが最も基本的な役割じゃ。

二つ目は「経済の同盟。同盟関係があると、貿易、投資、技術交流がスムーズに進む。新安保条約以後の高度経済成長は、この同盟がもたらした安定が一つの要因ぜよ。

三つ目は「価値観の同盟。自由・民主主義・法の支配といった共通の価値観を世界に発信する役割じゃ。これは目に見えにくいが、後の世になればなるほど重要になる側面ぜよ。

新安保条約は、この三つ全てを同時に進めた歴史的文書じゃ。**「良い面と悪い面の両方を見極める」**冷静な眼差しが、現代の評価には必要じゃ。

同盟は永遠ではない ── わしから令和への一言

わしが志士として現代の日本人に伝えたいのは、**「同盟は永遠ではない」**ということぜよ。世界の覇権は移ろうものじゃ。米国が常に世界第一の国であり続ける保証はない。中国、インド、ヨーロッパ、新興国 ── 世界の力関係は、十年単位で変化する。

**同盟に頼り続けるのは安泰じゃが、同時に「同盟の枠を超えて、自国の足腰を強くする努力も怠ってはならぬ。これは幕末で外国船の圧力を浴びたわが日本が、明治維新で「自分の力で近代化する」道を選んだのと同じ原則ぜよ。

二〇二六年一月十九日、新安保条約調印から六十六年。**日米同盟は依然として日本の安全保障の柱じゃが、その「」**の隣に「自国の足腰という別の柱を、しっかり育てていってほしい ── これがわしから令和の人々への、深い願いぜよ。

#外交#歴史#きょうのできごと