わしの仕舞えなかった戦が始まった ── 1868年鳥羽・伏見の戦い
📌 お題: 鳥羽・伏見の戦い
わしは、この一報を死後の世から聞いとるぜよ。慶応四年(一八六八年)一月三日 ── 西暦に直せば一月二十七日、京の南の鳥羽と伏見で、薩長を中心とする新政府軍と、旧幕府軍が衝突した。これが戊辰戦争の開戦ぜよ。わしは前年慶応三年十一月十五日、京の近江屋で暗殺された。わしが命を懸けて仕掛けた大政奉還が、最終的に内戦の引き金になってしもうた── これは、わしの志の挫折の物語でもあるぜよ。
わしが夢見た「無血の革命」
わしは慶応三年十月、徳川慶喜公に大政奉還を建白するに当たって、はっきりした目論見を持っとった。「武力衝突なしに、徳川家を新時代の中枢に残しつつ、議会制度で全藩が参加する近代国家を作る」── これがわしの船中八策の核心ぜよ。徳川を倒すのではなく、徳川を活かす革命を、わしは設計しちょったのよ。
ところが、わしが暗殺された一月後の慶応三年十二月九日、王政復古の大号令が出され、**徳川慶喜公の辞官納地(官位剥奪と領地返上)**が決まった。わしの「徳川を活かす」構想は、薩長の強硬派によって完全に否定されたぜよ。慶喜公は大坂城に退き、「このままでは徳川は完全に消される」**と判断した旧幕府軍が、京へ向かって進軍した ── その先で待っとった薩長軍と衝突したのが、鳥羽・伏見の戦いぜよ。
たった四日で決した戦の意味
戦は慶応四年一月三日から六日まで、わずか四日間ぜよ。じゃが、旧幕府軍一万五千に対して、薩長軍は四千五百── 数の上では圧倒的に旧幕府軍有利じゃった。にもかかわらず、新政府軍が大勝した。**錦の御旗が翻った瞬間、旧幕府軍は「朝敵」となり、戦意が崩壊したぜよ。
これね、わしの船中八策では絶対に避けたかった事態ぜよ。わしは「徳川対薩長」という構図そのものを解体したかった。**「朝廷の下に全藩が参加する議会」を作ることで、誰も「朝敵」にしない仕組みを作りたかったぜよ。じゃが、鳥羽・伏見で「錦の御旗」**が一方の側にのみ翻った瞬間、わしの構想は完全に破綻したぜよ。
内戦の代償 ── 戊辰戦争一年半
鳥羽・伏見から始まった戊辰戦争は、慶応四年一月から明治二年五月の箱館戦争終結まで、足掛け一年半続いたぜよ。死者は新政府軍・旧幕府軍合わせて約一万三千七百人と聞く。会津の白虎隊、長岡の河井継之助、奥羽越列藩同盟、箱館の榎本武揚 ── 多くの志ある者たちが、本来戦う必要のない戦で命を落とした。
これは、わしの志の最大の挫折ぜよ。**わしが「せんたく」と呼んだ革命は、本来「血で洗う」革命ではなかった。「藩の垣根を洗い流し、世界に開かれた日本を作る」**ための、知恵による革命じゃった。じゃが、わしが暗殺された後の薩長は、**わしの「説得による革命」を捨て、力による革命に走ったぜよ。
慶喜公の選択 ── 江戸無血開城
ただ、わしが死後の世で深く敬意を払う方が一人おる。徳川慶喜公ぜよ。鳥羽・伏見で敗れた後、慶喜公は江戸に戻り、勝海舟と西郷隆盛による江戸城無血開城を選んだ。**「徳川のために、これ以上の民の血を流さない」という決断じゃった。これは、わしが船中八策で描こうとした「徳川を活かす道」の、最後の残響じゃったかもしれん。
慶喜公は明治二十年代まで生き、貴族として静かに余生を送った。「戦って滅びるより、譲って生かす」── この選択は、わしの志の一部を、慶喜公が密かに引き継いでくれた**と感じとる。死後の世から、深く感謝を捧げるぜよ。
わしから後の世の人々へ ── 「説得の革命」を諦めるな
二〇二六年の今、世界中で内戦や紛争が絶えんと聞く。**民主国家の中でも、対立する陣営が「敵か味方か」で分断され、説得や妥協が不可能になっておるそうじゃ。これはまさに、鳥羽・伏見の戦いの直前の日本と同じ状況ぜよ。
わしから令和の人々への遺言は、これじゃ ── **「説得は時間がかかる、じゃが武力衝突よりは早く済む」**ぜよ。**わしが大政奉還で示そうとしたのは、対立する陣営が「共に座る」ことの可能性じゃった。敵を倒すより、敵と座る── これは武士の発想ではなく、商人の発想、そして近代国家の発想ぜよ。
鳥羽・伏見の戦いが始まった一月二十七日、**わしの志の挫折を記憶しつつ、それでも「説得による革命」の可能性を、後の世の人々が捨てぬことを、わしは祈り続けとるぜよ。